無趣味人間の好きなもの語り

趣味と言えるほどではない。

ウーマンラッシュアワーは好き嫌いの外にいる

 ウーマンラッシュアワーTHE MANZAIで披露した漫才が、今年も話題になっている。

 去年も記事を書いた。あれから早いもので一年が経つ。

 

 去年と同じように、村本は初っ端からスタンドマイクをつかんだ。

 まずは桜の会についてまくし立てる。Twitterで安倍政権を批判すると「地獄に行け」と言われる。「地獄はGoToの対象ですか」と。Twitterを削除すると「逃げやがった」と言われる。安倍政権が公文書をシュレッダーしたことを許して、芸人がTwitterを削除することを許さない。「俺のTwitterは公文書より上だ」と。

 次に福島原発東日本大震災の復興をメディアが取り上げなくなったことに触れ、人々がそういった問題に対して無関心だと叫ぶ。

「日本が平和というのは、彼らの声を聞かないから。無視すりゃ全部平和ですよ。お笑い芸人というのは、彼らの声をここに持ってこなきゃいけない。お笑い芸人というのは悲しい話を笑いにすることができる。痛みに触れて和らげることができる」と言う。

 

 相方の中川パラダイスは相変わらずニコニコしながら合いの手を入れていた。

 多分、風刺ネタでどぎつい言葉やめちゃくちゃなことを捲し立てる人間の隣で普通にしている相方は、芸人の間で一目置かれていると思う。爆笑問題の田中のような感じで。素人には分からないレベルの合いの手の技術があるのだろう。

 

 素人には分からないからこそ、「あれは果たして漫才と言えるか」と首を傾げられる。実際私も、去年THE MANZAIで見たウーマンラッシュアワーの漫才を、漫才とは思えなかった。

 しかし今年は、去年と同じような形式の漫才を改めて見せられて、あれを漫才かどうか考えること自体がナンセンスだと思えてきた。

 

唯一無二の漫才

 好き嫌いはあれど、あの漫才が、この世で唯一無二であることは確かだ。

 ウーマンラッシュアワーの漫才は誰にも真似できない。仮に他の漫才師がウーマンラッシュアワーの台本を真似たところで意味をなさない。テクニカル的な面白さだけではなく、そこに村本の思想があってこそ、意味があるからだ。

 

 例えば、誰も美輪明宏の「ヨイトマケの唄」を、おいそれとカバーしない。

ヨイトマケの唄」は、日雇い労働者の歌だ。母が日雇い労働者であることを理由にいじめられた子どもが、悔しさを噛み締めながら勉強して立派なエンジニアになった。今でも母が滑車を引っ張るかけ声を思い出す。そんな歌だ。

 氷川きよしなど、カバーしている人もいるにはいるが、まさかあいみょんをカバーするのと同じノリで歌うことはできない。その思想に共鳴することができなければ、歌うことは難しいだろう。

 

ファン以外の人間にこそ突き刺さる

 ウーマンラッシュアワーの漫才は、彼らのファン以外にこそ刺さる。

 この場合の「刺さる」は、心惹かれるという意味ではなく、言葉のナイフで刺されるという意味だ。不可抗力で「刺さる」と言うより、意図的に「刺す」と言った方が正しい。だからネットで炎上する。

 

 正直、私は村本という人間を、あまりよく知らない。Twitterで度々喧嘩をして炎上している政治的思想の強い人間という程度の認識しかない。昔はTHE MANZAIで優勝していたはずだが、いつからこんなことになったのか。

 それでも漫才を見てしまう。「俺には言いたいことがあるんだ。聞け」という気迫を感じるからだ。

 更に、これが重要なことなのだが、彼の言うことはとても分かりやすい。漫才という形をとった「主張」だからだ。好き嫌いは別にして、何を言いたいのかよく分かる。忘れ去られようとしている福島原発を、沖縄県民にだけ押し付けられている米軍基地を、桜を見る会を、批判しているのだ。

「忘れるなよ。見て見ぬ振りするなよ。俺は覚えているぞ。だから舞台で叫ぶ。誰が俺を嫌ったとしても」という気迫で。

 

 例えば、「俺の笑いのセンスが分かる奴だけついてこい」というのがダウンタウン松本人志のスピリッツだったとすると、ウーマンラッシュアワー村本からは、「俺の言うことを分からないと言うお前に言ってるんだぞ! そこのお前!」というスピリッツを感じる。

 ほとんどの漫才が、その漫才師を好きな人に向けて演じられ、より多くの人に受け入れてもらおうと作られているのに対して、村本の言葉は、村本を嫌う人間や、無関心な人間に向けて発信されている。

 村本の話を聞いて「そうだよね。俺も分かる」と言う人間にとっては、あの漫才はあまり意味がない。

 

 ウーマンラッシュアワー村本を好き嫌いで語ることの無意味さ

 村本の目的は、弱者の代弁者となって、メディアが大々的に表に出さないことを舞台の上に上げることだ。それを笑いに変えることで、より多くの人に知ってもらう。そのために漫才をしている。

 炎上上等なわけだ。好かれようなんて微塵も思っていない。だから、好き嫌いという基準で見ても意味がない。

 

 ウーマンラッシュアワーの漫才が漫才として成立しているかどうかを問うのも、ナンセンスだ。THE MANZAIという漫才の祭典であの形式の漫才を披露すれば、「あんなものは漫才じゃない」「不愉快だ」と言われることは明白だ。

 あの漫才は、まさしくそう言う人間に向けて作られた漫才なのだ。